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    徽章の歴史

    現在流通している電話帳の職業分類に用いられている「記章」という名称は本来「徽章」という文字が当てられていました。その意味するところは「徽」も「記」も「章」もしるしの意でしたが、「徽」が示すしるしとは、騎馬武者が背に担ぐ「旗印」を指しました。

    今日では、必要なしるしを彫刻や色彩で形どり表現した身辺に付ける標識・細貨類で、メダル・バッジ・ボタン・ペンダント・マーク・プリント・フラッグ・トロフィー等を包括する名称となりました。

    「徽章」の技法が取り入れられたのは西暦(A.D.)600年頃にまでさかのぼるものと考えられます。隣国の中国や朝鮮半島との交易によりもたらされた金工の知識・技術が進化しながら江戸時代を経て文明開化の明治へと引き継がれたもので、意匠の面から見ると紋章を中心に家具調度、衣服、旗、陣幕等が、金属工芸の面では刀剣装具、鎧兜、喫煙具、装身具、建築金具等が錺職(かざりしょく)により造られてきました。又、勲章・徽章・釦(ぼたん)等は金工師による一品製作で継続されてきました。

    明治の頃(A.D.1860~1910年代)の東京の徽章屋には工芸品・装身具の天賞堂、白牡丹、徽章専業の日本帝国徽章商会といった有力な企業がありました。大正初期(A.D.1910年代後半)には、前述の徽章屋が町錺(まちかざり)とすれば、腰元錺(こしもとかざり)風の装身具職人も勲章・帽章・釦の製作に励み、業者も東京の他に横浜、大阪、名古屋へと拡がりました。大正後期になって、第一次世界大戦(A.D.1914~18)後の好況は装身具業界にも活況をもたらしましたが、長くは保てず、続いて訪れた不況に装身具業界からの徽章業への参入が相次ぎ、多くが元来錺職が多かった台東区(下谷・浅草)に集まりました。

    昭和(A.D.1926年以降)に入ると不景気は進み、勲章は民間では製造できなくなり、造幣局でグリコの景品メダルまで製造したのもこの頃でした。

    第二次世界大戦(A.D.1942 ~45)前になると、国家の先き行きが風雲急を告げ、徽章業は軍関係と満州国関係の仕事が多くなり活気を取り戻しました。平和産業への転換策として東京徽章製造工業組合が生まれたのは昭和13年(A.D.1938)でした。然し、戦況不利に傾くや金属統制、代用品、軍需産業と、徽章業がかって経験したことのない荒波に揉まれることになったのです。

    戦後の徽章業界は多くを失った後の旺盛な需要に裏打ちされる購買力に助けられて、復興の足がかりをつかみました。バッジ・ブローチ・銀器などが製品の主なものでした。中でも既製品のスポーツバッジはスポーツ競技の隆盛と共に需要を支える根元となったことは特筆に値します。

    戦後何年か経て業界団体を作ろうとの気運が生じ、昭和22年(A.D.1947)に日本彫型協会、続いて翌年東京都徽章工業協同組合が、また昭和33年(A.D.1958)には全東京記章商工協同組合の結成へと進み、更に同年全国記章関係組合連絡協議会(略称: 全記連、大阪・愛知の加盟は昭和38年・A.D.1963)の発足を見るに至りました。

    この間日本の戦後の復興は目覚ましく、野球(ベースボール)だけでなく、進駐軍が持ち込んだボウリングが昭和30年代(A.D.1955年以降)に爆発的人気を博し、ボウリングブームによるトロフィーの成り金業者まで誕生しました。この様な状況下で昭和39年(A.D.1964)の東京オリンピックを迎えることになるのです。

    東京オリンピックに係る徽章業界結束の母体となったのが前述の全記連(A.D.2003年以降休会中)です。五輪マーク使用製品の製造販売のため、全国記章事業推進会(出資金1,726万円、会員数79社)が昭和38年(A.D.1963)に発足、記念額、キーホルダー、ブローチ、バッジ、カフス・タイ止めセット、タイ止めの22点で売上利益は2,000万円強を記録しました。同時に取り扱ったいわゆる公式記念メダルは金2,300個、銀32,000個、銅83,000個に達し、徽章業者が全国組織を活用し、一丸となって統一ある製品を販売出来たことは画期的、歴史的なことだと言えます。

    以後以下のような国家的イベントが続きましたが、業界組織(協同組合、全記連等)が主体となっての記念品協会形式で出資者を募り、協賛事業が展開され今日に至っています。

      大阪万国博覧会(A.D.1970;S45)
      札幌冬季オリンピック(A.D.1972;S47)
      沖縄海洋博覧会(A.D.1975;S50)
      神戸ポートアイランド博覧会(A.D.1981;S56)
      国際科学技術博覧会(科学万博-つくば’85)
      国際花と緑の博覧会(A.D.1990;H2,大阪花博)
      第12回アジア競技大会(A.D.1994;H6,広島)
      長野冬季オリンピック(A.D.1998;H10)
      秋田ワールドゲームズ(A.D.2001;H13)
      FIFA2002ワールドカップ(A.D.2002;H14,日韓共催)
      第5回アジア冬季競技大会(A.D.2003;H15,青森)
      浜名湖花博(A.D.2004;H16)

    オリンピックの様なビッグイベントでは、総じて協賛事業は一定の成果を残しましたが、世界都市博(A.D.1995;H7)の様に政治的理由から開催中止に追い込まれるイベントもありました。然しながら、長野オリンピックの頃から徽章類は海外の低価格物が市場に出回り始め、国内製造業者を生業から撤退させる事態を招き大きな不安を生み出すこととなりました。今後の課題として少子化、高齢化に伴う徽章業の事業継承を含め製造に係わる諸問題に重大な関心を抱かざるを得ない状況になってます。
     
     (引用文献:徽章と徽章業の歴史;筆者 山田盛三郎)

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